明治45年(1912年)に竣工した旧唐津銀行本店。
その誕生は、東京駅を生んだ唐津出身の建築家「辰野金吾」が、唐津近代産業の牽引役であった藩校の同級生「大島小太郎」より依頼を受けたことから始まる。建築家として最盛期を迎えていた辰野は、永年の夢であった国家プロジェクト「東京駅」設計工事の真っ只中であったため、唐津銀行の設計を愛弟子の「田中実」に委ねた。田中は、師匠の故郷であることに配慮し、建築全体のデザインには典型的な「辰野式」を採用するとともに、「建築家田中実」として赤レンガ調タイル等を用いた独自のデザインを取り入れた。まさに、辰野と田中の師弟愛から生まれた共作であった。

竣工当時、辰野金吾57歳、田中実27歳。
日本初の建築家として夢へ挑み続け、その生きざまを郷土へ遺すことを最愛の弟子に託した辰野。師匠の故郷を前に、崇高な使命感と強い意志で臨んだ田中。おのおのの情熱から、旧唐津銀行の美しい建築が生まれたのだ。先人たちの熱き精神と、人間物語を知らずして、もはや唐津は語れない。
 
類まれな努力により、明治建築界の巨匠としてのスターダムに登りつめ、建築界そして日本に数々の功績を残した。
入学時に学力不足で下位入学だった辰野は、超人的な猛勉強の末、主席で卒業。特権として得たロンドン留学を通じて建築学を極める。
留学後、工部大学校造家学科(現:東京大学工学部建築学科)の日本人初の教授に就任。日本建築教育の基礎をつくるとともに、辰野DNAを継いだ多数の建築家を世に送り出した。
明治19年に日本人初の建築設計事務所を開設し、生涯で200余りの建築設計に携わる。辰野は、当時日本にはなかった「建築家」の職能の確立に挑み、自らそれを実現した。
お雇い外国人が活躍していた時代を塗り替え日本人建築家としての偉業を残す。日本銀行や東京駅といった国家的権威を示す建築物を次々と手掛け、日本人初のスター建築家となる。
明治20年、デザイナー、建設業者、学者を繋ぐ三位一体の職能組織(日本建築学会)を結成し、学会の永年会長として活躍する。
 
 
1854年(嘉平7年)唐津藩生まれ。
藩の洋学校「耐恒寮」での高橋是清・曽根達蔵との運命的な出会い、持ち前の努力精神と向上心が建築家辰野金吾の才能を開花させる。日本人初の建築学科教授として日本建築の基礎をつくり、日本銀行・東京駅等の国家的建築物の設計者として、日本に建築家としての職能を確立させた。明治建築界の巨匠が故郷で手掛けた作品は、愛弟子田中実との共作となった旧唐津銀行しか残っていない。
 
東京駅(写真:JR東日本提供)
日本銀行本店(写真:日本銀行提供)
旧唐津銀行の誕生を語るうえで欠かせないキーパーソンが発注者「大島小太郎」、設計監修の「辰野金吾」、設計者「田中実」。唐津の近代化に尽力した彼らと、そのバックグラウンドには様々な人間ドラマがあった。
 
明治期以降、唐津経済発展のきっかけとなったのが、石炭産業の興隆である。唐津炭田の石炭を輸出するための貿易拠点となった唐津港は、国の特別輸出港として一躍発展を遂げた。輸送手段としての道路及び鉄道整備が行われ、市街地の電化など近代化が進んでいった。唐津銀行は市民生活や産業界を財政面で支える金融機関であり、地方都市繁栄の象徴であった。
石炭積出港の繁栄から港湾機能、水産関連業の発展によって、近代唐津の経済産業は飛躍的に成長していった。これらの起点となった近代化の象徴は、旧唐津銀行にとどまらない。唐津の炭鉱王、高取伊好の邸宅である「旧高取邸」や曽禰達蔵設計の「旧三菱合資会社」など、唐津には未来に語り継ぐべき近代化遺産が多数点在している。
 
1885年(明治18年)東京生まれ。東京帝国大学工業学部建設学科に入学し、辰野金吾の指導を受けて明治41年(1908)に卒業。清水組(現清水建設株式会社)に入り、優れた意匠力を発揮する。27歳の時に師匠辰野金吾に任されて唐津銀行の設計を行う。師匠の故郷であることに配慮して全体的なデザインは典型的な「辰野式」を採用しつつも、赤レンガ調タイルによる我流デザインを取り入れ、建築家としての才能を開花させていった。
 
旧高取邸
旧三菱合資会社唐津支店
(現:唐津市歴史民族資料館)
旧大島邸
 

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